BOURBON STREET

Step 32   京都外大ニューオリンズホットキャッツ

元メンバー他

竹中保夫(現マホガニーホール・ストンパーズ)ー結成当時のこと、そして歴代メンバー(敬称略)

初代メンバー:吉川裕之(cl.)、竹中保夫(tb.)、浅井英雄(co.)、渡辺義隆(bj)、渡辺善光(ds)、川村智春(bs)

当時京都外大には既に(1962年頃〜)シカゴスタイルのデキシーバンドが存在したが、竹中、浅井、両渡辺の4人の新入生の加入を機に、1969年、吉川がリバイバルニューオリンズスタイルのバンドを結成、「ニューオリンズホットキャッツ」も吉川の命名になるものである。吉川と川村は1年間シニアバンドとジュニアバンドを掛け持ちし、ジュニアバンドでは吉川はジョージルイスをコピーして演奏していた。

吉川裕之(現サウスサイドジャズバンド
43年前のこと・・はるか遠い昔の出来事のように思われるが、それからの自分の人生すべてが、そのことに凝縮されている。

1965年4月、京都外大に入学。高校時代は体操をやっていたから、大学に入ったら今度は少林寺拳法か軽音楽部でもやるかと気楽に考えていた。

当時、大学バンド合戦という大会があって京外大からラテンのトリオ(たしかトリオ ロス ソンブレロス?)が、早稲田のビッグバンドを破って日本一の学生バンドになり、あわせてモダンジャズのグループから、ピアノの竹越真樹先輩(故人)が最優秀賞を受賞したりで、当時、学生の間では人気のクラブであり、ひょっとして女の子にモテるかもしれない・・淡い希望を抱いてて結局は軽音楽部に・・・ラテンのボーカルかドラムをやりたくて入部。ところが、願いかなわず何も知らないデキシーバンドへ・・・

「おい、お前ジョージ・ルイス知ってるか?」 「は?喜劇役者の、ですか。」 「お前.... アホか」 (それから43年か・・)

当時の、外大デキシーバンドはOriginal Dixieland Collegian Sixがあり、いわゆるデキシーバンドでクリスバーバーケニーボールのヨーロピアンな演奏をやっていた。みんな、演奏はともかくIVYでぴしっと固めたおしゃれでかっこいいバンドだったことを覚えている。

そんな中へ一人入っても何もすることはなく、練習日には部室の隅に一人立ち、先輩たちの演奏を聞いていた。そんなバンドも、先輩たちの就職活動にともない、2年生になった僕にも演奏のチャンスが巡ってきたわけで、ギター、ベースはハワイアンバンドから来てもらい、以下のメンバーでグループが編成されることになる。
 川端敬三(tb)、渡辺伸雄(tp)、加賀谷一郎(dr)、
 岡本靖宏(b)、図子良一(g)、吉川裕之(cl)、後藤祐一(vo)

そのころよくやった曲が、「ハロードーリー」、「メイム」、「パフ ザ マジックドラゴン」、「オールオブミー」など、ポピュラーソングやルイのミュージカルナンバーを中心に演奏していた。

さて、オリジナルデキシーランドジャズクラブ、ニューオリンズラスカルズとの出会いもちょうどその頃から始まる・・・ジェリー ルイスではなく、ジョージ ルイスというクラリネット奏者のことだとわかって、また「そのルイススタイルのクラリネットを吹いている人がいるらしい」ということも知るようになり・・大阪・桜橋のサンケイ会館・アメリカ文化センターで行われていたODJCの例会は僕にとっては夢のような世界で、普段やっているデキシーとは違ってなんか、ドキドキしながら聞いたのを思い出す・・・

そして、次の年に竹中保夫(tb)、浅井英雄(tp)、渡辺義光(dr)、渡辺義隆(bj)らが入ってきて、念願?のジョージ ルイス スタイルの演奏を始めることとなる。

1970年の安保闘争でコルネットの浅井が退学し、その後渡仏し現在スペイン在住。1970年ルイス・ネルソン等が来阪しサンケイパーラーで行われたパーティーの際、彼らの前で「ニューオリンズホットキャッツ」が演奏。メンバーは吉川裕之(cl.)、竹中保夫(tb.)、渡辺義隆(bj)、渡辺善光(ds)、井上恵一(bs)の5人。また大阪万博では外大メンバーに関大OBの矢野裕昌(tp)が加わり毎夜アメリカンパークで演奏した。この年、吉川と矢野が最後の移民船で渡米した。

この頃から阪大と外大が交流が始まり、阪大はシカゴスタイルであったが、エドモンド・ホールをコピーしていたクラリネット(福蔵)と私は友達になりお互い影響も受けた。外大のコードブックの基本は、福蔵と竹中が当時独身であった川合純一の家に行き徹夜して書き写したものである。

福蔵とは短期間であったが「ニューオリンズスクランブラーズ」と言う阪大と外大の混成バンドを結成し、不定期であったがレッドアローで演奏した。その時お客さんとして聴きに来ていた俳優の藤岡琢也がバンドに名前をつけてくれた。福蔵もその後奥さんと渡米した。

以下、「ニューオリンズホットキャッツ」のメンバーの変遷をリーダー(太字)の交代を基準に○代目とした。
(1971年)
2代目メンバー:渡辺義隆(bj)、竹中保夫(tb.)、渡辺善光(ds)、風間晶世(cl)、柴田実(tp)、井上恵一(bs)、

(1972年)
3代目メンバー:井上恵一(bs)、風間晶世(cl)、柴田実(tp)、池本徳和(co)、井上博行(bj)、北市勝彦(bs)、青木美輝子(p)、北川和幸(tb.)

(1973年)
4代目メンバー:風間晶世(cl)、柴田実(tp)、池本徳和(co)、井上博行(bj)、北市勝彦(bs)、尾崎喜康(p)、島村雄一(tb.)、山中信裕(bs)、渡辺政明(ds)

風間晶世(現リバーサイド・ジャズバンド(新潟)/ニューオリンズ・レッド・ビーンズ)
音楽オンチの私が「ジャズを…」なんてことは、大学に入り立ての私の頭には、片隅にもなかったことです。聴く方ならまだしも、よりによってクラリネットを手にしてしまい演奏する側に回ろうとは…?

友人がロックバンドのドラムをやりたいということで軽音楽部の部室へ一緒について行ったことがきっかけとなりました。その時、なんと練習していたバンドが、吉川裕之氏率いる初代(?)NOHCだったのです。

今でもあの光景、木造平屋建ての木製建具の古びた練習室での光景をよく覚えています。本当にメンバー全員が役者でした。吉川氏に、「ちょっとこのクラ全部こう抑えて吹いてみぃ」と言われて、何度か吹いている内に「ピー」と、音と言えない音が出た途端に、みんな一斉に、ほめ言葉! すっかりいい気分になり、つかまっていた応援団に話をつけてくれると言われて、私はいつの間にか部員になっていました。

頼りの吉川氏もアメリカに渡ってしまい、ほとんど独学でクラリネットを覚えましたが、当時のメンバーは適当で、「ジョージルイスも独学であれまでになったんだからお前にもできる」と、みんなに言われながら、レコードを聴き、練習をしたものです。振り返ってみたら、あのタイミングが私の一生を決めるきっかけとなりました。

それ以降、私にとっての師は、そして最も影響を与え続けてきたのが、生きたお手本の河合良一氏となりました。

(この続きは、またの機会があったら…NOHC初めての米国演奏旅行、竹中氏の言うコードブックは今もその原本が…、風間と池本の米国旅行、ニューオリンズ滞在記など・・・)

(1974年)
5代目メンバー:池本徳和(co)、井上博行(bj)、北市勝彦(bs)、尾崎喜康 (p)、島村雄一(tb.)、山中信裕(bs)、渡辺政明(ds)

(1975年)
6代目メンバー:北市勝彦(bs)、井上博行(bj)、尾崎喜康(p)、島村雄一(tb)、山中信裕(bs)、渡辺政明(ds)、林郁夫(tp)、知元直子(cl)

(1976年)
7代目メンバー:尾崎喜康(p)、島村雄一(tb.)、山中信裕(bs)、渡辺政明(ds)、林郁夫(tp)、知元直子(cl)、安井俊博(tp)、安井牧(cl)、高居俊裕(tp)、寺田紀子(cl)

尾崎喜康(現ニューオリンズ・ラスカルズ)
僕は大学に入る前はビートルズやカーペンターズなんかを聴いていて、こういうニューオリンズジャズのような音楽を知らなかったのですが、入学時勧誘されて入りました。さっそくニューサントリー5のラスカルズライブに連れて行かれました。このとき僕の道は決まったのです。(管理人による聞き取り)

(1977年)
8代目メンバー:安井俊博(tp)、安井牧(cl)、高居俊裕(tp)、寺田紀子(cl)、山田洋一(tb.)、藤原道直(bs)

(1978年)
9代目メンバー:高居俊裕(tp)、寺田紀子(cl)、山田洋一(tb.)、毛利博(tb.)、小浜淳一(ds)、城野克己(bj)、竹内秀男(tp)、菅谷雅子(p)

Sさん(ODJC会員)
子供がメンバーでした。ホットキャッツのコンサートなどを聴きに行っていると、「お母さん私達が尊敬する素晴らしいバンドがあるから。」とニューサントリー5に連れて行ってくれました。以来今日までラスカルズの演奏を楽しませていただいています。(聞き取り)

(1979年)
10代目メンバー:毛利博(tb.)、小浜淳一(ds)、城野克己(bj)、竹内秀男(tp)、菅谷雅子(p)

(1980~1981年)不明

(1982年)
?代目メンバー:樋口俊哉(bs)、小林昇治(cl)、溝川祐次(ds)、五十畑佳世(p)、川村佳江(cl)、辻晴子(cl)、福呂和也(bs)、堀部容子(p)他

小林昇治(現マホガニーホール・ストンパーズ)
私とジャズの出会いは高校時代に友人から借りた2枚レコード(たぶんサッチモだったと思う)から始まりました。当時私は、柔道をやっており、音楽は聞くだけでしたが、しかし楽器に対するあこがれが強く、大学に入学したら、密かに音楽サークルに入部したいと考えていました。外大に入学した時、迷わずHOTCATSに入部しました。

実は本音は、運動部の勧誘がきつく、早く入部しようと思ったのと、北村英治デキシーキングスを聞いていて少し音楽を理解していたので、初めでもついていけるかなと、安易に考えていました。クラリネットは、なべさん(現在寺田さん)が卒業されて、空席だった為、自然と決まりました。

大学を卒業して25年、今でもニューオリンズジャズを演奏している私に、見えない運命を感じています。

(1983年以降)消滅

Uさん(ODJC会員)
1982年ラックスホールのODJC例会が、ホットキャッツを聞いた最初で、最後でした。人数は非常に多く、まるでビッグバンドのような記憶が残っています。実力は「普通に学生バンド」でしたが、トランペットの高居さんがずば抜けて上手かった。その時は現役だと思いこんでいたんですが、すでにOBだったのですね。(聞き取り)

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