末廣光夫さんが9月22日に急逝されたとの報に接し、大変驚いている。末廣夫妻の年末年始は、毎年東京で過し、昨年(平成23年)12月29日には、関東のコレクターやファンが神保町の「アディロンダック・カフェ」に集まり、末廣さんを囲んで忘年会を開いた。普段ミュージシャンとの付合いが多いと思うが、この夜はうるさ型のコレクターとのジャズ談義に花が咲き、大変喜んでおられ、お元気だった。思いもよらないことである。
関西の末廣さんとの交流は昭和55年(1980)からである。それ以前はコンサート会場の客席ファンと舞台の司会者という距離があったが、いソノてルヲ氏のビ・バップ派に対し、末廣さんは頑固なトラッド派で親しみを感じていた。この年の6月ブラジルに移住した右近雅夫氏が25年ぶりに里帰り、六本木の「ランプライト」で歓迎ライブがあった。その会場にハートウォーマーズのSPレコード「BLUES MY NAUGHTY SWEETIE GIVES TO ME」(Dix)を持参し、サインをもらっていると、横にいた末廣さんが『君こんなレコード持っているのか!』と仰天し、それがきっかけで末廣さんのジャズ仲間に入れてもらえることが出来た。
末廣さんの功績は、まずは昭和41年(1966)6月に始まった「全日本ディキシーランド・ジャズ・フェスティバル」の開催であろう。これ以前にも神田共立講堂やヤマハホールなどでトラッド・フェスティバルはあったと思うが、それらは単発的で規模も小さく、ニューポート・ジャズ祭のように、昼間から色々なバンドがステージに上がって演奏する定期的なジャズ祭りは、日本ではこのフェスティバルが最初ではなかろうか。会場は芦屋の遊園地に始まり各所で行われたが、末廣さんと知り合い後の1980年代、10年以上続いた武庫川学院甲子園会館時代が一番懐かしい。このお祭りは2010年の44回まで続いた。
昭和57年(1982)10月に末廣さんは、北野坂界隈の各会場から同時に演奏がスタートする「神戸ジャズ・ストリート」を発足した。この方式も日本では神戸が最初と思われる。このお祭りは今や神戸名物のひとつになり、今年も末廣さん逝去直後に31回目が行われた。
そして忘れられないことがある。それは平成4年(1992)9月ロス・アンジェルスの「クラシック・ジャズ・フェスティバル」の会場で、末廣夫妻にサンズ・オブ・ビックスのコルネット奏者トム・プレッチャーを紹介していただいたことだ。ビックスそっくりに吹く彼に会えるとは思いもよらず大感激だった。プレッチャーとは意気投合、帰国後も長いこと交流が続き彼のレコードは結構集めた。末廣さんのお陰である。今は冥福を祈るしかない。 (ODJC会員、HOT CLUB OF JAPAN幹事)