大阪老人愚痴の垂れ流し、その2。
初回で申し上げたように昭和一桁時代大阪のジャズ事情から始めませう。この時代の大阪ジャズの資料は少なく、服部良一/瀬川昌久両氏がお書きのものしかないようです、服部氏は大阪東成区出身ですから詳しく大阪のジャズ事情をお書きです。
ところで何を指して「ジャズ」というのか?。これは難題です、服部先生は著書「ぼくの音楽人生」で当時のジャズとは、(・・・は途中略)
・・・戦前においては、日本はもちろん、本場のアメリカでも、ジャズはダンスミュ−ジックとほとんど同意語であったということだ。と書いています。今ではジャンル分けが進んでこれはジャズ、あれはポピュラ−でラテン系などと区別ができて便利です、しかし当時では音楽関係者を除いて大衆の間でそういう考えはほとんどないに等しく、洋楽ならば何でも「ジャズ」と称した観があります。詳しくは専門の方に委ねるとしてここではジャンル分けにはとらわれずに話を進めますのでご了承下さい。
(ぼくの音楽人生・服部良一)
昭和三年の四月初め、ようやく春めいたとはいえ、まだ時折うすら寒い風の吹く東京のある日の夕方、国鉄東京駅の乗降口に、疲れ果てたように降り立った六人組若者たちの一団があった。・・・この六人こそ、関西からはるばる東上した日本初のプロ・ジャズバンド、井田一郎のひきいるチェリ−ランド・ダンスオ−ケストラの面々であった。東京が震災から復興してゆくにつれ日本最初のプロ・ジャズバンドが大阪を去りジャズも東京中心に動いて行き、そして道頓堀ジャズの時代は終わりとなる象徴がこれでしょう。それでもまだ余波は残り道頓堀の賑わいも続きます。当時流行のジャズはレコ−ド、カフェ、キャバレ−、ダンスホ−ルで多く聞けても、会場でのコンサ−トは大阪ではなかったのでしょうか。
(ジャズで踊って・瀬川昌久)
昭和三年(1928)六月二十三日土曜日の午後六時、青山青年会館で、レッド・エンド・ブル−主催、ア−ネスト・カアイをゲストに、ジャズ演奏会が開かれた。正規のコンサ−トホ−ルにおけるジャズ演奏会としては、おそらくはじめてのものだったのではあるまいか。・・・・昭和四年頃、今度は地方にも演奏旅行する事を計画し、地方新聞社とタイアップして、松本、長野、名古屋、京都、神戸と各地の劇場でコンサ−トを開き、これらも成功裏に終わった。京都、神戸で行いながら、当時東洋一の劇場といわれた松竹座のある大阪で何故公演しなかったのか分かりません、ジャズの盛んな大阪では耳の肥えたフアンが多かったので敬遠したのでは、と邪推したくなります。このレッド・エンド・ブル−は慶応の学生バンドで紙恭輔(sax)も加わった(ジャズで踊って・瀬川昌久)と書かれています。
(ジャズで踊って・瀬川昌久)
・・大正末のミナミと呼ばれる大阪道頓堀周辺の歓楽街の、カフェ−やダンスホ−ルにジャズが満ちあふれていた。・・・ショウ−ボ−トこそなかったが、道頓堀川に浮かんだ粋な屋形船で熱演するジャズ・バンドの姿は見られた。『河合ダンス』という芸者のジャズ・バンドまでが絶大な人気を博していた・・・。「河合ダンス」は当時小学生の我々でも有名な存在で、「河合ダンスモダン餅つき」(郷土誌・上方)や本格派のバレ−など特異な文化活動で大阪文化を刺激しました。当主は元・幇間(たいこもち)で茶人としてもスグレものだったそうです。河合ダンスは大阪文化史上特記されるべきものですが芸者のジャズ・バンドまであったとは知りませんでした。服部氏は「当時ミナミに、このようにジャズの全盛期が到来したのにはいくつかの起因がある」として。
(ぼくの音楽人生・服部良一)
底流としては、アメリカで発生したジャズがようやく日本に知れて、普及し始めたこと。アメリカ航路の船の中でサロン・ミュ−ジックやダンス音楽を演奏するために雇われた日本人のミュ−ジシャン(明治四十五年七月に東洋汽船の地洋丸に乗った、東洋音楽学校卒の波多野福太郎、奥山禎吉ら五名が最初といわれる)が、本場でジャズを仕入れてきて、日本にもち帰り、日本人プレイヤ−の中でジャズ機運が高まっていたこと。洋盤のレコ−ドや楽譜も渡ってきた。という状況で服部先生言うところの「道頓堀ジャズ」が爆発に近づいて参ります。 明治45年(1912)はニュ−オリンズ、ストリ−ビル歓楽街閉鎖の五年前です。仮に1900年(M33)をジャズ誕生の時とすれば、ジャズはあまり時を経ずして日本に渡ってきたと言えます。
(ぼくの音楽人生・服部良一)
大正8年(1919)に早くも「テル・ミ−」を邦訳してセノオ楽譜から出版している。「テル・ミ−」の原曲がアメリカでつくられたのが一九一九年に、同じ年にまたたく間に日本に輸入された。という早さで国内に入ってくるのです。「セノオ楽譜」は有名だったらしい、平成現代の道頓堀「今井うどん店」は昭和初期には楽器店を経営しておりこのように記されています。
(ジャズで踊って・瀬川昌久)
もと芝居茶屋の稲竹、そして現在(注・戦後間もない時期)楽器店のあった場所から少し西、中座の隣にそば屋を開いている。・・・・とまれその今井の前身が今井楽器店であり、そのショ−ウインド−に夢二の表紙絵の美しいセノオの楽譜を並べ、若人の心をそそったのは忘れられない。ということです、その時代の大阪・道頓堀は。
城ヶ島の雨−宵待草−叱られて−チペラリ−の歌−リゴレット・・・。
(笑説法善寺の人々・長谷川幸延)