大阪老人愚痴の垂れ流し、その1。
このぺ一ジは見てもお役に立たないことを書いています。ですからご用とお急ぎの方はご覧にならない方が身のためかと思います。それでもこの無用の文がすこしはあなたの気分を変えるかも知れません。
私はODJC歴二十ん年、大阪市在住七十余年の老人です。(老人の証拠に市から敬老優待乗車証もろてます)今回、会からのご命令でこの欄を書くことになりました。どうぞよろしくご贔屓のほどを、そしてお叱りも賜りますよう伏してお願い申し上げます。
手始めになにかないやろか、と見渡せば、ありました。それは老人の専売特許、愚痴と思い出話、これから行きまひょ。
ODJCでは"NEW ORLEANS RASCALS"や"Yo Kimura Trio"が1920〜30年代のジャズ・ポピュラー曲をよく演奏します。しかしその時代の大阪にどのような音楽があったのか、それと当時の街を知る方は年令的に見て少ないと思われますので、及ばずながら大阪・島之内育ちの私が、街に流れた楽の音を思い出しながらお伝えしたいと思います。昔はよかった、つくづく実感します、と言っても物心ついたのが昭和八〜九年(1933〜4)頃ですからその辺りから始めます。
大正末から昭和初期の大阪は工業化が急速に進み、市に流入する労働人口増に対応して市域拡張が進み、「大大阪」と呼ばれる時代でした。当時一代の名市長と謳われた関一(せき・はじめ)市長は適切な市政で今日の大阪の土台をつくりました。その一つが「御堂筋」でこれがなければ今日のような都市景観は得られなかったでしょう。(因みに、今の関市長はお孫さんです。)
当時、道頓堀を中心とする「南」の盛り場は、急増した都市勤労者が娯楽を求めて大繁盛、それに応えて登場した新形式の遊び場「カフェ」「キャバレー」が雨後の竹の子的に大発生、特に小さいカフェは市中いたる所にありました。かく申す私の家も隣がカフェで白いエプロン姿の女給さんに飴など貰っていました。尤も家は今のNOラスカルズ河合さんのマホガニーホール(もちろん当時はありません)の横でしたから、土地柄カフェが多くても当然ですが。
そのカフェやキャバレーなどで連夜流れたのが新興音楽「ジャズ」でした、「有明」「赤玉」など数百人収容の大キャバレーでは生バンド演奏ですが、「カフェ」は小さく、十数人の客が入る程度のものが一般的でしたから、そこではレコード演奏のジャズが女給の嬌声に混じって聞かれました。
しかし、そのような場でのジャズがどのようなものであったか、これを正確に把握することは困難です。何しろ客は女給と戯れるのが目的でカフェ、キャバレーに行くのですからその場に流れる音楽などはどうでもよく、まともに聞くことはなかったと思われるので、当時せっせと通った人がおいででも特に関心のあった人以外聞き出すことは難しいでしょう。
次回からその辺りのお話、わたくしの記憶や、当時発売のレコードなどの資料から類推してお伝えしますが、正確でないところはご容赦下さい。
(アンクル奥野氏は、ODJC会員奥野博史翁、録音記録でもご活躍です。)