写真1 ビックス・バイダベック(1903-1931)
■ ビックスとの出会い
私がビックスのしコードを初めて聴いたのは、昭和31〜2年(1956-7)頃、河野隆次氏(昭和60年3月没)がNHKラジオの「リズム・アワー」の開始テーマに使っていた「At The Jazz Band Ball」(1927年10月録音)である。始めは誰の演奏か知らなかったが、非常に快活なアップ・テンポな演奏で、途中でフェード・アウトしてしまうのが残念でならなかった。
河野さんは日本のジャズDJの草分けの一人で、この曲を18年間もテーマに使ったという。おそらく日本コロムビアの「SP盤ジャズの歴史のビックス」(SlOOO3B)をかけていたのだと思う。我々の年代のジャズ・フアンの多<は、河野さんの明快な解説放送で育ったといっても過言でない。ラジオを通じて高校生の私にビックスの存在を教えてくれたのが河野さんだった。
写真2 放送中の河野隆次さん 写真3 SP盤「ジャズの歴史」のビックス
■レコード蒐集
ビックスが入ったレコードを始めて買ったのは、昭和32年2月に購入した日本コロムビアの2枚組LP「ジャズの歴史」(PL5020/21)である。これにはビックス・アンド・ヒズ・ギャングの「Jazz Me Blues」(1927年10月)が入っていた。これもビックスのアタックの強いコルネットがリードする名演である。このLPには野川香文氏(昭和32年7月没)の解説書がついていて、ジャズの歴史を勉強しながら聴いたものである。
ビックスの単独LPの初購入は、同じ日本コロムビアのダイアモンド・シリーズ「ビックス・バイダーベック」(ZLlO85)で、先の2曲を始め、フランキー・トラムバウアー楽団での傑作「Singin’ The Blues」(1927年2月)など全8曲が収められていた。その後コロムビア系のビックスを集大成した4枚組の全集「THE BIX BEIDERBECKE STORY」(PMS115C/7C)が昭和40年(1965)2月に出た。油井正一氏(平成10年6月没)のこのアルバムの解説書は、日本文で書かれた最も長文のビックス研究書で、現在も極めて貴重な資料となっている。
ビクター盤では、輸入盤「THE BEIDERBECKE LEGEND」(LPM2323)が最初の購入だった。このLPは日本ビクターでもXシリーズの中の1枚「伝説のコルネット/ビックス・バイダーベックの芸術」(RA5298)として、昭和40年に発売になった。
コロムビア盤はビックス自身のバンドやトラムバウアー楽団など、主に小編成のコンボ演奏が多いのに対し、ビクター盤はジーン・ゴールドケツト楽団やポール・ホワイトマン楽団など、大編成のオーケストラでのビックスを鑑賞できる点が特徴である。スイートな伴奏をバックに燦然と輝くビックスのソロ、アンサンブルを強烈にリ一ドするコルネット・プレイに胸を打たれないフアンはいないだろう。
このようにビックスのレコードを聴いていくうちに、彼独特のフレーズ、音色、イントネーション、アタック、そしてアンサンブルをリードする力強い奏法に惹かれ、少しずつレコードを集めるようになった。
写真4 LP盤「ジャズの歴史」 写真5 ダイアモンド・シリーズ「ビックス・バイダーベック」
写真6 コロムビア全集「ビックス・バイダーベック物語」 写真7 Xシリーズ「伝説のコルネット/ビックス・バイダーベックの芸術」
だんだん病が高じてくると、好きなミュージシャンのレコードは全て集めてみたくなるものだ。シャルル・ドゥローネの「New Hot Discography」(Criterion)をもとに、入手した曲に印をつけながら、SP盤1曲のために、あちらのLP、こちらのLPと中古レコード店巡りや海外オーダーを重ねていった。
世界にはありがたいレコード会社があるもので、今迄LP化されていない曲やSP時代には出なかった別テイクを集めたLPも出回り、それらを入手した時はほんとうにうれしかった。その中には「The Complete Wolverines with Bix Beiderbecke」(Fountain FJ-114)、「The Victorious Bix」(Divergent 301/2)や「The Columbian Bix」(Raretone RTR 24004)などがある。
写真8 The Complete Wolverines 写真9 The Victorious Bix 写真10 The Columbian Bix
■ ディスコグラフィの作成
ビックスの吹込んだ曲は別テイクを含め約200曲あるが、昭和45年(1970)にはその90%以上が集まった。そこで一度はやってみたいと考えていたディスコグラフィの作成に取り組み、47年に手書きではあるがA4判93ページからなる「A DISCOGRAPHY of BIX BEIDERBECKE 1924-1930」がまとまった。自分で言うのも変だが、一曲一曲別テイクやビックスのソロ小節を耳で確かめながらまとめた労作である。ちょうどその年、ホット・クラブ・オブ・ジャパンの25周年記念パーティがあり、その会場でこのディスコグラフィが紹介され、私のビックス狂が世間に知られるようになった。各レコード会社の役員や社員がみえている席でのスピーチで、「是非ビックスの全集を出すよう企画してほしい」とお願いしたことを覚えている。それは3年後の昭和50年に実現する。日本のRVCがLP100枚からなる「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ」を企画、その第4巻「白人ジャズの巨星たち」6枚組の内4枚がビックス・バイダーベック(RA17/20)で、私の選曲と解説によるビックスのビクター・セッション66曲が収められた。他の2枚はジャック・ティーガーデンとマグシー・スパニアであった。
写真11 手作りの「A DISCOGRAPHY of BIX BEIDERBECKE」 写真12 ホット・クラブ25周年記念パーティ 写真13 ビクター全集「白人ジャズの巨星たち」
ビックスの吹込みを全曲クロノジカルにまとめた最初のLPは、イタリアのJoker盤「The Bix Beiderbecke Records Story In Chronological Order」(SM3557/70、1978年発売)の14枚組であろう。同じイタリアのCDでは、9巻からなる「The Complete Bix Beiderbecke In Chronological Order」(I.R.D. Bix1/9、1991年発売)が出ている。アメリカ盤のLPでは、サンビーム20枚組の「Sincerely Bix Beiderbecke」(Sunbeam BIX1/20、1987年発売)がデラックスだ。このLPセットには、ビックスの当時最新のバイオ=ディスコグラフィがついている。CDでは同じサンビームの13枚組「Bix Restored The Complete Recordings and Alternates」(Sunbeam BXCD 1/13、1998年発売)が貴重である。
写真14 JokerのクロノジカルLPアルバム 写真15 I.R.D.のクロノジカルCDアルバム
写真16 SunbeamのクロノジカルLPアルバム 写真17 SunbeamのクロノジカルCDアルバム
私のディスコグラフィ完成直後、イタリアのRaretone社から、吹込みメンバー、ソロ・オーダー付のより詳しいディスコグラフィ「The Bix Bands」が出版された。さらに2年後の昭和49年には、アメリカのArlington House社から、リチャード・M・サドハルターのビックス研究書「Bix : Man & Legend」が発売になり、その中でフィリップ・エヴァンスが編集したビックスのソロ譜面付きの詳細なディスコグラフィが発表され、私のディスコグラフィは色褪せてしまった。その後エヴァンスは平成10年に、ビックスが何年何月何日に何をしたと、日誌形式でまとめた602ページに及ぶ大作「The Leon Bix Beiderbecke Story」(Prelike Press社)を世に出した。世界には凄いビックス・ファンがいるものである。
トニイ・レコードの西島経雄氏(平成22年7月没)は「ディスコグラフィは最初に作る人は負け、最後に作る人が勝利する」と言われたが、正にその通りである。最新のビックス研究書としては、ジーン・ピィレー・ライオンの「Bix : The Definitive Biography of a Jazz Legend」(Continuum社 2005年発売)が良いと思う。もちろん詳細な最新ディスコグラフィが付いている。
写真18 The Bix Bands (1972) 写真19 Bix : Man & Legend (1974)
写真20 The Leon Bix Beiderbecke Story (1998) 写真21 Bix : The Definitive Biography of a Jazz Legend (2005)
■ ビックス・バンドの再現
ビックスのレコードが集まってくると、更に欲がでて、ビックスに影響されたジャズメン、ビックスの曲を再演したレコードも集めるようになる。ビックスに敬意を表し、ジミー・マクパートランド、バニー・ベリガン、エディ・コンドン、ジェス・ステイシー、ラルフ・サットンといった有名ジャズメンが、ビックスに捧げたレコードを作っている。それらを聴いているうちに、「日本のミュージシャンがビックスの曲を演奏するコンサートが開けたら素晴らしい」と思うようになった。その機会が高田馬場のビクター・ミュージック・プラザで毎月行なわれていた関東ディキシー組合の例会で実現した。第13回の例会は、昭和52年11月20日「トリビュート・トゥ・ビックス・バイダーベック」と銘打って開かれた。企画・構成が私、音楽監督が斉藤隆、演奏メンバーは次の通りである。
仲野彰(tp)、松岡雄二(tb)、吉本泰一郎(cl)、三上和彦(ts)、斉藤隆(p)、向里直樹(g)、白須孝尚(b)、松本吉彦(d)。
全体のアレンジを斉藤さんが担当、ビックス役は仲野さんで、彼は譜面に強く、ビックスのソロを事前に採譜研究、当日はビックスの特徴を生かして演奏した。ビックス・バンドの聴きどころは、バス・サックスの効果を生かした甘いアンサンブルの中で、ビックスのアドリブ・ソロが映えわたるところにあるが、そこまでの再演は難しく、全体としてはエディ・コンドン楽団のLP「Bixieland」(Columbia PL5023)のようなジャム・セッション・スタイルで終始した。でも今聴き返してみると、リズム・セタションがしっかりしており、洗練されたなかなかの好演である。特にビックスのジーン・ゴールドケツト楽団での名演でお馴染みな「Clementine」は私好みのご機嫌な演奏だ。
写真22 私家CD盤「Tribute to Bix Beiderbecke at “Big Box” 1977」
ビックス・バンドの再現を徹底的に追求している楽団にサンズ・オブ・ビックス(The Sons of Bix)がある。レコードもJazzologyなどから数枚でている。このバンドのコルネット奏者がトム・プレッチャーで、ビックスのフレーズ、音色、イントネーションなどの特徴をこれ程忠実に再現できる奏者は他にいない。後述のビックスの伝記映画「ジャズ・ミー・ブルース」のサウンド・トラツクは彼が担当しており、ビックス・バンドの再演が聴けるのも、この映画の大きな魅力となっている。
ビックス系のトランペットには、ディック・サドハルター(Dick Sudhalter)、ピーター・エクランド(Peter Ecklund)、ランディ・サンキ(Randy Sandke)、ランディ・ラインハート(Randy Reinhart)、ジョン・エリック・ケルソー(Jon-Erick Kellso)などがいる。サドハルターは2008年9月に死亡、エクランドは2000年代初め病に襲われ(パーキンソン病と聞いている)、第一線の活動から遠ざかっている。トム・プレッチャーの後継者はアンディ・シュム(Andy Schumm)であろう。彼もビックスに大変こだわっていて、ビックス・バンドを再現し活躍している。オーケストラでは、ヴィンス・ジョルダーノのナイト・ホークス(Vince Giordano & The Nighthawks)がニューヨークのホテル・エディソンを拠点に、1920年代のサウンドを醸し出している。
写真23 Tom Pletcher with The Sons of Bix 写真24 Andy Schumm and His Flatland Gang (78回転10吋LP盤)
日本ではというと、神戸のディキーランド・ハートウォーマーズが頭に浮かぶ。コルネットの平生舜一氏(平成16年5月没)はアレンジも得意とし、昔から1920年代の巨人の演奏にスポットを当て、その再演に取り組んでいた。その集大成が遺作となった「Nostalgic Memories of Black and White Jazz in Roaring Twenties」(DHWCD-001/2H,2004年発売)である。2枚組の1枚「White Jazz」は全曲ビックスの名演を再演、平生さんのビックスへの思い入れがひしひしと伝わってくる。この時期のハートウォマーズは、ビックスの曲をレパートリーに盛んに演奏していた。東京公演が実現しなかったのが残念だった。
関東にはバンジョーの青木研氏が母校千葉県立東葛飾高校吹奏楽部を指導、そのピックアップ・メンバーで編成したザ・ブロッサム・ジャズバンドがある。このバンドは1920年代に活躍したジェリー・ロール・モートンやビックス・バイダーベックなどのスイング時代以前のジャズの巨人が残したサウンドを追及しており、恐らくこれほど純粋に20年代のジャズを追及した学生コンボは、日本のジャズの歴史になかったのではなかろうか。千葉県の名門東葛高校は、シカゴ・スタイル・ジャズの創造に貢献した、あのオースチン・ハイスクールに思えてならない。
オーケストラでのビックス・バンドの再現では、アコースティック・ギターの阿部寛氏が、SP時代に思いを馳せて78’s Eraオーケストラと名付けたリハーサル・バンドを編成、新宿トラッド・ジャズ祭では毎回演奏している。最近参加している女性トランペット二井田ひとみが素晴らしく、彼女は日本のハリー・ジェームスと呼ばれているが、私としては日本のビックスと呼ばれるようになってもらいたい。
写真25 ハートウォーマーズの「Black and White Jazz」 写真26 青木研の「The Original Blossom Jazzband」 写真27 阿部寛の「Echos Of The 78’s Era」
■ 伝記映画ジャズ・ミー・ブルースの上映
この映画は1990年にイタリアで製作され、原題はずばり「BIX an Interpretation of a Legend」だが、日本題は「ジャズ・ミー・ブルース」となり、平成4年(1992)の5月から7月にかけ、銀座の“シネスイッチ銀座”と横浜の“シネスイッチ本牧”で封切られた。物語はビックスの生涯を忠実に再現していて、ミュージシャン他登場人物は全て実名、ビックスの先輩に当たるヴァイオリンのジョー・ヴェヌーティがビックスの死後、彼の生涯を回想する形で進む。ヴェヌーティとビックスの友情、優れた音楽家としてのビックス、音楽一筋に生きた人間像が描かれている。ビックスをモデルにした映画には「情熱の協奏曲」(1949,日本公開1951)があるが、これは一般の映画ファンにも楽しめるように、物語中心にアレンジされていたが、こちらは単刀直入、我々ジャズ・ファン、ビックス・ファンのために作られた映画といってよい。主人公ビックスの大役を演じるブライアント・ウィークスはシカゴ出身の舞台俳優で、この作品が映画初出演の新人だという。サウンド・トラックがまた素晴らしく、ボブ・ウィルバーが音楽を担当している。主役のコルネット奏者には、The Sons of Bixのトム・プレッチャーを起用、ビックスの特徴あるフレーズ、音色、イントネーション、アタックなどを見事に再現している。バス・サックスの効果を存分に生かしたビックス・バンドの演奏を終始楽しめるのも、この映画の魅力だ。
監督はイタリアのプピ・アヴァティという人で、1938年生まれの中堅監督である。映画界に入る前はジャズ・クラリネット奏者として活躍した時期もあり、レコードも残している。ロケはビックスの生まれ故郷アイオワ州ダヴェンポートで行われた。私が後述の1996年夏にダヴェンポートを訪れたときに、ビックスの生家を見学すると、家の表札が“PUPI AVATI”となっていて、バイダーベック家からこの家を購入してしまうほどのビックス・ファンであることを知った。部屋にはネーム入り監督椅子のほか、当時のロケ機材が置かれていた。
思えば平成3年(1991)の暮れ、野口久光氏(平成6年6月没)からの突然の電話でこの映画の存在を知った。それから封切りまで、野口さんと新橋の日本ヘラルド映画で何度も何度も試写を見たのが懐かしい。野口さんも大のビックス・ファンで、映画の細かな内容には関係なく、ビックスの映画が作られたことだけで、子供のように喜んでおられたのが忘れられない。
写真28 映画「ジャズ・ミー・ブルース」のDVD 写真29 入場チケット 写真30 劇中のフランキー・トラムバウアー楽団
■ ビックス生誕の地を訪ねる
ビックスの生まれ故郷アイオワ州ダヴェンポートに一度は行ってみたいと、いつも思っていたが、その夢が平成8年(1996)7月に実現した。訪れたのは長谷川淳一(平成23年7月没)、山田紀彦(平成17年2月没)、出口一也の各氏と私の4人である。ダヴェンポートはアイオワ州の東端に位置し、シカゴから飛行機で約40分の距離にある。雄大な景観を見せるミシシッピー河に面し、対岸がイリノイ州、緑の多い、いかにもアメリカらしい自然豊かな美しい田舎町だった。
ダヴェンポートでは毎夏「Bix Beiderbecke Memorial Jazz Festival」が開催されていて、この年は25回という節目に当たり、ライブ・コンサートだけでなく、コンベンション、セミナー、ヒストリー・ツアーなどが企画され、例年にないビッグなイベントだった。
受講したジャズ・セミナーでは、スイング時代の名クラリネット奏者、バンド・リーダーのアーティ・ショウ(2004年12月没)が講師を務めた。彼は大変な早口で淡々としゃべり、英会話の力不足もさることながら、難解な講義だった。ビックスがなぜ偉大なのかを語っていたように思う。アーティ・ショウは来日したことがなく、彼に会い、一緒に写真を残した日本人は、我々以外にいないのではなかろうか。
ダヴェンポートのビックスゆかりの地を巡るヒストリー・ツアーでは、ビックスが少年時代を過ごした実家を訪問、彼が子供の頃寝泊りしていた屋根裏部屋まで見学した。この家は先述のプピ・アヴァティの所有で、行く行くは博物館になるとのことだった。
ビックスが眠るバイダーベック家墓地では、アーティ・ショウも参列して行われた「墓前演奏」に参加することができた。演奏はビックス・バイダーベック・メモリアル・ジャズ・バンド(ニュージャージー州ハケッツタウン)にビックスとジーン・ゴールドケット楽団やポール・ホワイトマン楽団で一緒にプレイしたトロンボーンのスピーグル・ウィルコックス(当時93歳)が加わり、讃美歌やビックス・ナンバーを演奏、参列者全員がビックスの冥福を祈った。この時の情景も忘れられない。
それとこれは余談になるが、経由地のシカゴでは、シカゴ・スタイル・ジャズ発祥の地「オースチン・ハイスクール」を訪問、守衛さんの計らいで校内をくまなく見学することができた。舞台のある小さな古い音楽教室には、シカゴ・ジャズ発祥の場所を記念するプレートが飾られていた。英文だが要訳すると「1920年代、オースチン・ハイスクールは、ザ・ブルー・フライアーズという名のバンドの拠点であった。そのバンドのメンバーは“シカゴ・スタイル・ジャズ”として知られる独自のジャズのスタイルの発展に貢献した」と書かれていた。この学校の中まで見学した日本人は、我々以外にいるのだろうか。
このような貴重な経験は、家でビックスのしコードを聴き、文献やインターネットで調べているだけでは得ることはできない。“百聞は一見にしかず”である。
写真31 アーティ・ショウのジャズ・セミナー(左から二人目がショウ) 写真32 ビックスが育った実家
写真33 墓地での墓前演奏会 写真34 シカゴのオースチン・ハイスクール
■ 平成15年(2003)はビックス生誕100年の年
2003年はビックス生誕100年の記念すべき年で、世界各地で彼を祝うイベントが開催された。夏のダヴェンポートでは、我々が訪れた7年前以上の規模でフェスティバルが行われたようである。私も何かやってみたいと思い、ささやかながら彼が生前録音したゆかりの曲を演奏するステージが、ドラムスの春川ひろし氏の肝いりで実現した。8月17日HUB浅草店、演奏バンドはハブ・デキシーランダース、メンバー下間哲(co)、中島三郎(tb)、後藤雅広(cl)、小林淑郎(ts)、清水納代(p)、坂本誠(g)、菊地一成(b)、春川ひろし(ds)。演奏は小難しい編曲は行わず、その代り三ステージズ全てビックス馴染みの曲が演奏され、一般のお客さんにも親しめる“ビックス・ナイト”となった。
レコードの発売では、アバーズ・レコードから「Celebrating Bix !」(ARCD 19271)が出た。ニューヨーク・オールスターズを率いビックスがらみのアルバムを多数出しているランディ・サンキが中心となり、ダン・バレット(co,tb)、スコット・ロビンソン(c-melody)、ヴィンス・ジョルダーノ(bass sax)、ディック・ハイマン(p)らオール・スターが集まり、ビックス・ナンバーを見事に再現している。ジャズオロジーからは、イタリアのギター奏者リノ・パトルーノがプロデュースした「A Tribute to Bix Beiderbecke」( JCD-343)が出た。このアルバムは、2003年スイスの“アスコーナ・ジャズ・フェスティバル”のステージ・ライブ録音で、先のランディ・サンキのほかトム・プレッチャー(co)やボブ・ウィルバー(cl,ss)らが参加しているのがうれしい。他にもいろいろソフトが出ているに違いない。
写真35 生誕100年「ビックス・ナイト」のちらし 写真36 Arbors盤「Celebrating Bix!」 写真37 Jazzology盤「A Tribute to Bix Beiderbecke」
ジャズが大きく発展しようとしていた1920年代、多くのジャズメンが黒人のジャズに範を求めることを当然のようにしていたさなかにあって、ビックス・バイダーベックはユニークで他に類例を見ないクールで革新的なジャズを創造した。ビックスの音楽にインスパイアされたミュージシャンも数多い。特に黒人のプレイヤーにも影響を与えた点は特筆に値する。私も長年ビックスのレコードにこだわり続けているが、これからも変らないだろう。それはミュージシャン仲間からも常に慕われたビックスの人間性が演奏に秘められているからに相違ない。
写真38 ビックス・バイダーベック(1903-1931)
[この記事は、レコード・コレクターズ(第11巻第4号1992)とワンダフルワールド通信No.35/36(2003)に加筆したものです。 平成30年(2018)11月柳澤安信]
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