ジャズが好きになると「自分もこのような演奏をしてみたい」と楽器を持ってミュージシャンを目指す人と、「もっといろいろな演奏を聴いてみたい」とリスナーの道を歩む人がいる。私は後者の道を歩んできたが、ジャズを聴き始めた頃は特に、ジャズの歴史、ジャズの巨人の楽歴とそのレコードに興味を持った。ミュージシャンを志す人は、更に楽器の奏法やスタンダード・ナンバーを習得せねばならない。いずれの道を歩むにせよ、「ジャズの歴史」を系統立って把握していなければどうにもならない。それには「レコードを聴くこと」と「そのガイド」が必要になる。私にとっては、ジャズ評論家の先生方のレコード・ジャケット解説、ジャズ専門誌の論文、ラジオ放送解説、単行本などがどれ程役に立ったか計り知れない。特に野口久光、河野隆次、油井正一の3人の先生方には大きな影響を受け、いつも頭の中にある親の様な存在である。この先生方の思い出に入る前に、その先輩格の野川香文氏と村岡貞氏に少し触れたいと思う。
ジャズ評論の草分け 野川香文氏
日本人による最初のジャズ鑑賞本も
野川香文氏は文字通り日本のジャズ評論の草分けである。早稲田大学建築科を卒業後「時事新報」に記者として勤めたが、昭和10年頃当時の先端を切ってジャズ評論家に転じた。ジャズを本格的に研究し出したのが昭和5年(1930年)頃からで一時、大井蛇津郎(大いにジャズろう)というペンネームで知られたこともあったという。その後の評論家は大なり小なり野川さんの教えを受け、影響を受けているといっても過言ではない。
野川氏は肝臓、腎臓の持病があり、昭和32年(1957年)7月31日脳出血で亡くなった。私は野川さんとは面識はなく、高校時代、野川さんの「追悼番組」をラジオ東京(JOKR)の「イングリッシュ・アワー」で聴いていた。出演した評論家諸氏が「日本のジャズ評論の先駆者で、オールマイティな評論家だった」と回想していたのを覚えている。なおイングリッシュ・アワーは志摩夕起夫氏と国一郎(三国一郎)氏が一週間交代で解説するジャズの深夜放送である。日本語の解説に続き外国人アナウンサーによる英語解説があり、その後にレコードがかかった。
野川香文氏の著書には「ジャズ音楽の鑑賞」(新興音楽出版社、昭和23年11月=写真下)がある。これは日本人が書いた最初のジャズ鑑賞本といわれている。野口久光氏のジャズメン・イラストも素晴らしい。代表作は「ジャズ楽曲の解説」(同左下=千代田書房、昭和26年9月)であろう。名言“ジャズ音楽には名曲というものは無い。けれ共、素晴らしい演奏、名演がされた場合においてだけ、それは名曲だといえる”は、この本から生まれた。
ホット・クラブ・オブ・ジャパン初代会長 村岡貞氏は中古レコード店のオーナー
ホット・クラブ・オブ・ジャパンの初代会長、村岡貞氏(写真左)は神田神保町2丁目、村田簿記前にあった「リズム社」という中古レコード店のオーナーであった。スイング・ジャーナル誌の広告に、“ホット・クラブ・オブ・ジャパンの会員申込所”(同左下)と書かれていて、東京に出てきた私は、早速入会手続きのためリズム社を訪れた。村岡さんはちょっとお役人風な気難しそうなおじさんだった。店内にはジャズの洋書も置かれていて、海外のジャズ愛好団体との日本窓口を兼ねたレコード店である。野口久光氏デザインによるレコードをイメージしたバッジを購入、念願のホット・クラブ会員になった。リズム社はマニア向けのレベルの高いお店で、初心者だった私は頻繁にレコードを買いに行った記憶はない。野川氏と共に戦前から音楽評論 野口久光氏
ビックス・バイダーベックの大ファンでもあった
野口久光氏(写真左)は野川香文氏と共に戦前から音楽評論をされた草分けの一人で、ジャズのほかに映画評論、ミュージカルなど、幅広い分野で活躍されたことでも良く知られている。
権威ある批評家の先生方と直接話をすることは、自分のジャズの知識との差を考えると、なかなか出来ることではない。ホット・クラブの例会でも、批評家諸氏と一般会員とは先生と生徒のような関係で、気楽に会話が出来る雰囲気ではなかった。そんな中で野口さんは大変庶民的な感覚で我々に接してくださった。野口さんは同じ業界で働く者には厳しかったと聞くが、我々ジャズ・ファンには大変優しく親切だった。アマチュア精神を重んじ、コマーシャルに妥協することには反発した。
野口さんと初めてお目にかかったのも、初めて会話したのもホット・クラブの例会だったと思う。レコードのジャケット解説、スイング・ジャーナル誌の論文、単行本「ジャズへの道」(新興楽譜出版、昭和30年=写真下左)、ジャズメンの素晴らしいイラスト、LPジャケットのデザイン、映画ポスターの製作と評論、更にミュージカル評論とレパートリーの広い偉い先生であることは以前から承知していた。毎月の例会で私がビックス・バイダーベックのファンであることを知った野口さんが「君、ビックスが好きなの、よいね!」と声をかけていただいた。
昭和50年(1975年)日本ビクターがLP100枚からなる「RCAジャズ栄光の遺産シリーズ」という企画を立てた。その中の「白人ジャズの巨星たち」(写真上右=Victor RA-17/22)6枚組みの4枚が「ビックス・バイダーベック」で、その選曲・解説を私が担当したとき、「やったね!」と褒めていただいた。野口さんはデューク・エリントンの作品をこよなく愛されていたが、ビックス・バイダーベックの大ファンでもあった。
昭和53年には永年芸術文化の第一人者として活躍された功績から、紫綬褒章を受章された。ホット・クラブ主催による「祝う会」が催され(写真下)、私は渡辺貞夫夫人とペアを組んで受付を担当した。ロビーにいたので内部の様子の記憶がないのが残念だが、会が終わって花束を抱えてタクシーに乗る野口さんをお見送りした覚えがある。
(野口久光氏の紫綬褒章を祝う巻頭ディキシー組合特別例会)
行田よしお氏と有田昭一氏が発起人となって始めた「関東ディキシー組合」は、昭和51年(1976年)から62年(1987年)まで続いたが、野口さんはその組合長を引き受けられ、毎月の例会には必ず出席した。この会の活動目的は、ミュージシャンとのコミュニケーションを深めながら、一人でも多くのディキシーランド・ジャズ・ファンを増やしていこうというもので、有名ミュージシャンではなく、地味であっても情熱のこもったユニークな演奏を目指しているバンドに演奏の場を提供していくものであった。このディキシー組合でも紫綬褒章受賞を記念して「会長を囲むジャム・セッション」が行われた。当時私も幹事の一員で例会には毎月参加したが、コンサート終了後に出演したミュージシャンと野口さんを囲んで、コーヒーを飲みながら懇談するのも、この会のもうひとつの楽しみになっていた。
昭和58年(1983年)には勲四等旭日小綬賞を授与され、この時も関東ディキシー組合主催による「祝う会」が催された。野口さんはディキシー組合のような草の根的な啓蒙活動には人一倍協力を惜しまない人で、それは小劇団「ふるさときゃらばん」への熱烈な支援にも表れている。それから大阪のニューオリンズ・ラスカルズの大ファンで、土曜日の午後にちょっと思い立つと、新幹線に乗って梅田の「ニュー・サントリー・ファイブ」まで聴きに行ってしまうというのだから、相当なものである。
野口さんが監修した「グッド・オールド・デイズ:ニューオリンズ・ラスカルズ・アット・白い異人館・神戸」(写真下の左=Victor SJX-20186)は、数あるラスカルズのレコードの中でも、名盤中の名盤とされている。
趣味はビデオ撮影とその編集だったのではなかろうか。コンサート会場の暗がりに三脚を立て、映画監督のようにカメラを回している人がいるので、誰かと思ったら野口さんだった。それが一度だけではなく、いつもやっているのには驚いた。また貴重な映像をコピーしてプレゼントする親切な面もあり、先生からいただいたアメリカのテレビで放映されたドキュメンタリー番組「BIX : produced and directed Brigitte Berman」は、私の宝物になっている。これは道路をかけて走る珍しビックスの動画があり、ホーギー・カーマイケル、ジェス・ステイシー、ドック・チーサム、アーティ・ショウらがビックスの思い出を語ったビックス・バイダーベック物語で、日本では公開されていない。
平成4年(1992年)5月、日本でもビックス・バイダーベックの伝記映画「ジャズ・ミー・ブルース」(写真上の右)が封切られた。平成3年の暮れ、私は野口さんからの突然の電話でこの映画の存在を知った。それから封切りまで、野口さんと新橋の日本ヘラルド映画で何度も何度も試写を見たことも忘れられない思い出である。野口さんが阿川泰子氏も誘っていて、終了後3人で地下の喫茶店に入り、映画を肴に懇談したこともあった。
野口久光氏は明治42年(1909年)8月9日栃木県宇都宮市生まれ。昭和8年(1933年)上野の東京美術学校(現・東京芸大)を卒業、東和商事(現・東宝東和)に入社した。当時は不景気な時代で、絵かきになっても食えないと思い、商業美術の仕事をしたいと思ったという。筈見恒夫氏と組んで欧州映画の宣伝に従事、数多くのポスター製作を行う。父親は職業軍人で厳しかったが、浅草にものわかりのいい叔父がいて、良く映画に連れて行ってもらったという。戦争中の三年半は日中合弁の映画会社に勤め、上海に滞在した。当時の上海は活気があり、日本には無いオーケストラやバレエ、オペラもあったという。戦後は再び映画会社に籍を置く傍ら、ジャズ、ミュージカルとそれまで日本ではあまり知られていない西洋文化の紹介に努める。戦後一時映画のプロデューサーの仕事をしたこともあったという。私は見たことが無いが、野口さんが製作した映画に新東宝の「見たり聞いたりためしたり」(1947)、「浮世も天国」(1947)、「エノケンのとび助冒険旅行」(1949)がある。
ジャズは教えてもらったわけではなく、自分で感じて発見したという。ダンスホールなどでの一連の演奏の中に、クラシックとも違うし、ダンス・ミュージックとも違う新しい音楽があった。アメリカ映画の中に、ベニー・グッドマンやデューク・エリントンが出てくる場面があると興奮し、これがジャズなんだなあと感じた。それに惹かれて雑誌に書き始めるようになったのだという。
野口さんは高齢になられても大変お元気だったが、平成5年体調を崩され年末に胃の手術をされた。レコード・コレクターズに創刊号から「私とジャズ」を寄稿していたが、12月号で連載が中断した。手術後の経過が良好で退院し、平成6年6月号向けの原稿を寄稿したが5月末に再入院、平成6年(1994年)6月13日、胃がんのため84歳でなくなられた。「私とジャズ」の6月号は「ジャズも歌えたポップスの女王ダイナ・ショアの思い出(上)」で、これが最後の原稿ではなかろうか。
葬儀は6月16日、南荻窪の願泉寺で和田誠氏を葬儀委員長に音楽葬として執り行われた。外山喜雄とディキシーセインツや大阪からニューオリンズ・ラスカルズも駆けつけ演奏した。友人の中に双葉十三郎氏や淀川長治氏の顔も見受けられた。喪主を務められた長男久和氏は、昔はロック・バンドでキーボードを担当していたが、現在はジャズ界でピアニスト、コンポーザー、アレンジャーとして活躍している。
なお野口さんが生前収集した膨大なコレクションは、久和氏の意志によって、野口さんの弟子であった佐々木徹雄氏(映画の予告編製作者として著名、故人)らが整理に当たり、映画関連資料は財団法人川喜多映画記念文化財団へ、ジャズ関連資料は岩手県一ノ関、菅原昭二氏のジャズ喫茶「ベイシ−」に保管されたという。野口邸は全ての部屋が資料で足の踏み場もなく、LPレコードだけでも6万5000枚あったというから驚きだ。
平成21年(2009年)は野口さんの生誕100年の年でそれを記念してニューオータニ美術館でグラフィックデザイナー「野口久光の世界」が開かれ、11月には三越劇場で「野口久光メモリアル・コンサート」も開かれた。久和氏のEXPRESS BAND(急行[久光]バンド)にマリーンや宝塚のシンガーが花を添えた。昨年(2017年)も10月にヤマハ銀座スタジオで、「野口久光/ジャズの黄金時代展」が開催、野口さんの偉大さを改めて感じている。
NHK(JOBK)「リズム・アワー」の名解説者
河野隆次氏、名著「ジャズの事典」も出版
河野隆次氏(左写真の最前列右=第17回全日本デキシーランド・ジャズ・フェスティバル(1982) 後列右端が柳澤安信氏)の印象は、何といってもNHK「リズム・アワー」の名解説といってよいだろう。我々年代のジャズ・ファン全てがこの番組を聴いて育った。私が聴いていたのは高校生時代、昭和30年(1955年)から33年頃で、曜日の記憶はないがNHK東京第2放送(JOBK)の午後だったように思う。ビックス・バイダーベックの「アト・ザ・ジャズ・バンド・ボール」で始まり、河野さんの簡潔明瞭な解説に、ジャズという音楽は相当奥の深い音楽であることを知った。ちょうどその頃、河野隆次著「ジャズの事典」(写真左=創元社、昭和32年8月)も出版され、河野さんが私のジャズの先生となった。この「ジャズの事典」は、ジャズという音楽を総合的に捉え、これから理解しようとしている人には便利なように、また相当のジャズ・ファンにも鑑賞の手引きとなるように作られていて、私のジャズを聴く上での必携本となった。特にこの本の第2章ジャズの歴史の中の「ディキシーランド・リバイバル」の解説は、現在でもこれほど詳しい日本文の文献は、他には見当たらない。他の本は皆「ビ・バップ」ばかり、1940年代の「ニューオリンズ・リバイバル」が無視されているのは片手落ちだ。そういう意味からも大変貴重なジャズの歴史書である。
河野さんは大正8年(1919年)東京の生まれ、初めてジャズを聴き出したのが中学3年の頃で、それまではフォン・ゲッツイのコンチネンタル・タンゴとかスペインのダンス音楽を聴いていたが満足できなかったという。そんな時にルイ・アームストロングやベン・ポラック、ジーン・ゴールドケットなどの輸入レコードを聴かされて、いっぺんにしびれてしまったという。このきっかけを与えたのが稲吉という人のようだ。それからは輸入ジャズを聴かせる喫茶店に通うようになる。本人が自分のことを不良中学生と書いているが、中学4年のころ、喫茶店で自分のリクエストした曲がなかなかかからないので、意地悪されたと勘違いし、軍事教練に行くために持っていた機関銃を店内で十数発ぶっ放したという。ルイ・アームストロングは実弾だったため少年院に送られたが、河野さんは空砲だったため、一週間の停学処分ですんだ。
これを期に、他人の所有物に頼るのではなく、自分でレコードをコレクションしようと決めた。それからのコレクション活動は並大抵のものではなく、リヤカーに布団を一杯積んで質屋通いをして、小遣いを捻出したとのことだ。大学は早稲田大学に入学したが、卒業は昭和18年法政大学文学部英文科である。この大学時代に慶応ボーイの油井正一氏と出会い、レコードの蒐集とジャズの研究を競い合った。河野さんは油井さんより年齢がひとつ下だと思うが、ジャズとの拘わりは河野さんの方が先輩のようで、ホット・クラブの二次会の時に、神田の「天狗」という居酒屋で河野さんと隣り合わせると、「油井君は相変わらずこういう大衆酒場が好きだな」とクン呼びにしていた。河野さんは特別な秘密ルートを使って貴重盤を集めていたようで、油井さんも河野さんには一目おいていたのではなかろうか。
兵隊には昭和18年に出征、北支の自動車部隊に陸軍中尉として参戦した。この出征までに集めたSPレコードが、何と8000枚に達していたというから驚く。しかしこのコレクションは昭和20年4月13日の大空襲ですっかり消失してしまった。その年の5月に北支から帰還して国内配属になった河野さんは、焼けこけて真っ黒に固まったレコードの山を見て、ワーワー声を上げて泣いてしまったという。
戦後は昭和21年から28年までビクター文芸部洋楽課に勤務した。河野さんはレコーディング・ディレクターとして、ビクター・ホット・クラブ(昭和22年録音)、ジミー荒木とグラマシー・シックス(昭和24年)、レイモンド・コンデとゲイ・クインテット(昭和23年)、ナンシー梅木(昭和26年)、JATA(ジャズ・アット・ディ・アサヒ)(昭和28年)など、数々のSPレコードを世に出した。その中でも昭和27年4月にジーン・クルーパ・トリオが来日すると、そのレコーディングに奔走した。クルーパ・トリオは当時ノーマン・グランツの傘下にあり、マーキュリー・レコードの専属だったため、ビクターが発売することは常識的には不可能である。それを実現させたのは河野さんの情熱以外の何ものでもない。このビクター時代の作品は「オリジナル原盤による日本のジャズ・ポピュラー史:戦後編」=写真右=Victor SJ-8005 LP8枚組)に、河野さんの裏話とともに納められっている。
NHKの「リズム・アワー」(左写真「スイング・クラブ」左が河野隆次さん)の前身「スイング・クラブ」が始まったのが、昭和23年7月の第一土曜日である。それから毎週土曜日の第2放送午後7時30分の放送だった。しかしこの時間帯に第1放送(JOAK)では「二十の扉」を放送していて、別の時間帯を希望する投書が続出したという。そこで水曜日の第1放送午後2時に変わったが、これもサラリーマンや学生から苦情があり、1年後には元の土曜日第2放送午後7時半に戻ったという。放送時間帯は年毎の番組編成会議で決められ、以降も変わっているようだ。番組は、初めはSPレコードによるバンド紹介だったが、16吋のトランスクリプションやVディスクを使った放送も行った。もちろんベニー・グッドマンなどスイング・バンドの演奏も聴いたが、私はマグシー・スパニアやメズ・メズロウなど、シカゴ派のミュージシャンの演奏が強く印象に残っている。この「スイング・クラブ」は河野さんがビクターを退社し、ジャズ評論家として独立した後も続き、何と18年間に亘り日本のジャズ啓蒙に寄与することとなった。番組の終了は昭和40年(1965年)頃だったと記憶する。
河野さんを更に身近に感じたのが、スイング・ジャーナル誌の記事であった。昭和40年代までのスイング・ジャーナル誌は、まだトラディショナル・ジャズの論文も多く、モダン・ジャズは久保田二郎氏に任せ、河野さんはディキシーランド・ジャズ専門のライターとして健筆をふるっていた。毎月必ず河野さんのトラッド・ジャズに関する特別寄稿や「ヒット・ソング物語」、ラジオ東京イングリッシュ・アワーと提携して読者の質問に答える「ディキシーランド・ジャズ教室」があって、発売日が来るのが毎月待ち遠しかった。日本ジャズ界のスターを肴にした久保田二郎氏との「お笑い対談」も愛読した。その後スイング・ジャーナル誌はモダン・ジャーナル、広告ジャーナルの道を進み、トラッド・ジャズを愛する河野氏や池上悌三氏、飯塚経世氏は論壇を去らざるを得なくなった。
昭和38年(1963年)8月、ジョージ・ルイスとニューオリンズ・オールスターズが来日(左ページにCD写真)した。新宿厚生年金ホールは三千人以上のファンが詰め掛け、空前の熱狂的コンサートになった。大阪では長期間滞在し、オリジナル・ディキシーランド・ジャズ・クラブ(ODJC)のメンバーとも交流を深めた。この時の全国ツアーで会場に詰め掛けたファンは、述べ32万人に達したという。ジョージ・ルイスのオールスターズは翌年の39年5月、40年5月と都合3回来日し、労音出演によって日本中を巡演した。河野さんはこの三回の日本ツアーを引率し、ステージで司会を務めた。巡業中にジョージ・ルイスと河野さんが銭湯で互いに背中を流し合ったという話も聞いたことがある。
このジョージ・ルイスの日本公演をきっかけに、河野さんはニューオリンズ・ジャズへの思い入れがより強くなった。昭和46年(1971年)には、日本で最も人気があり幻の名盤と言われたあの「ジャス・アト・オハイオ・ユニオン」をダンレコード(ミノルフォン音楽工業)から日本盤として発売することに成功した。翌年の47年には、アメリカン・ミュージックのウィリアム・ラッセルと契約し、これもジャズ喫茶でしか聴くことのできなかったAMレコードを、別テイクや未発表の演奏を含めて、同じダンレコード(徳間音楽工業)から20枚のシリーズものとして発売にこぎつけた。これらは河野隆次氏なくては出来なかった功績である。日本のトラッド・ジャズ史に一番の功績を残した評論家であった。
河野さんは昭和60年(1985年)3月16日午前9時11分、脳内出血のため横浜中央病院で亡くなられた。桜木町かどこか駅のホームで突然倒れ、救急車で運ばれたと聞いている。まだ65歳でこれからもお付き合いできると思っていたので、突然の訃報が残念でならなかった。私のジャズの先生は今でも河野隆次さんで、モダン・ジャズには目もくれず、ひたすらトラッド・ジャズを聴き続けている。
オールマイティなジャズ評論家、油井正一氏
リアル・ジャズに関しては恐らく日本一の見識
ありがとう!柳澤さんから素敵な記事
みなJAZZに夢中で良い時代だったあの頃
中学時代、自己流でトランペットをはじめ高校に入学、ブラスバンドの部員になったころ、ジャズ映画が大ヒットしていた。今でいえば「タイタニック」や「スター・ウォーズ」並みのヒットだったのだから、みなジャズに夢中、良い時代だった!
先輩の名トランペッター、奥山康夫さんにラッパとジャズを教わった。当時、家は父の勤務の関係で宇都宮だったので、雪谷のそばにあった祖母の家から目蒲線を使って上石神井まで通っていた。奥山先輩に連れられて行き知ったのが電車の途中駅、恵比寿で奥田宗宏さんがやっていらっしゃったジャズ喫茶『ブルースカイ』と渋谷の『スウィング!』。恵比寿のクリフォード・ブラウンにもしびれたが、渋谷スウィングでかかるルイやジョージ・ルイス、キッド・オリーの虜になった。
当時流行りのフランス映画から抜け出したような、マスターの彼女で店のカンバン娘だった「さっちゃんの魅力」も大いにあったと思う。両親の監視もないので、ブラスの練習が終わると夜遅くまでスウィングに入りびたった。タバコは吸わなかったがスウィングの有名なマッチを授業中いじっていて、先生にすっかり常習喫煙者と間違われたことも懐かしい。もちろん詰襟の学生服である。
当時の渋谷スウィングの常連さんには、大勢の「先輩」ジャズオタクがいた。特に覚えているのは、当時国学院生で現在仙台青葉城護国寺宮司の田中光彦さん、そしてもう一人詰襟の学生服で私よりも年上、以前から通ってきていたのが、この方、柳澤安信さんだった。お二人とも『渋谷スウィング』のレコードはほとんど知っている古参スウィングっ子だった。柳澤さんはとても当時から物静かな方で、今も変わらない。そして学ランだった当時から今まで、雰囲気がほとんど変わっていない、、、当時から老けていたのか? いや、今がお若いのである。永年一緒にジャズを追いかけてきた仲間。彼はどんなジャズにもお詳しいが、特に白人コルネット奏者、伝説のビックス・バイダーベックにかけては右に出るものがいない。私はサッチモ…。なんだか派は違うけれど「戦友」みたいな感情を感じる。
田中光彦さんも、柳澤さんも永年WJFの会員として、24年前、1994年の会発足時から会を支えてくださっている!!
この度、「戦友」柳澤さんから、素敵な記事をご寄稿いただいたので、謹んでここにご紹介させていただく。私達の世代皆が懐かしい、ジャズ評論家の皆様のお話。ありがとうございます。(外山喜雄)
(日本ルイ・アームストロング協会の許諾を頂き、ワンダフルワールド通信NO.99(編集 小泉良夫 2018年5月発行)より転載。)