BOURBON STREET

Step 35 モダン・ジャズ全盛期にトラッド・ジャズを聴かせた2軒のジャズ喫茶 (2)

柳澤安信 (ODJC会員)

●水道橋スイング

「水道橋スイング」は国電水道橋駅脇の神田川の川っぷちにあった。御茶ノ水側(東口)改札口を出て、水道橋を渡ってすぐ左手、すし屋の横の細い石段を降りた地下のお店だった。店内は逆L字形に曲がっていて、ドアーを開けて中に入ると、正面奥に左右形の違った古ぼけたスピーカーが2台、右手にアップ・ライト・ピアノが置かれていた。

在りし日の水道橋スイング
写真5 在りし日の水道橋スイング

奥を左に曲がった右手にカウンターがあった。ここで昭和45年ごろ若き日の村上春樹が1年ぐらいアルバイトをしていたことは、有名な話である。歌手の金丸正城氏もこのお店の出身だ。

店主は柴田榮一氏である。柴田さんは大正7年(1918年)3月20日東京の生まれ、ジャズとの出会いは軍隊で中国に渡っていた頃だという。中国の田舎の部落に駐屯していたとき、ポータブル蓄音機でビリー・ホリディを聴いたそうだ。復員後読売ホールでレイモンド・コンデ、昭和28年(1953年)11月にJATPの来日公演、12月にはルイ・アームストロング・オールスターズも来日、32年にはベニー・グッドマン・オーケストラの公演などを聴き、ジャズに没頭するようになった。

「水道橋スイング」の開店は昭和32年(1957年)12月14日である。ジョージ・ルイスが好きで集めた10吋のSP盤を一人で聴いているのはもったいない、皆さんに聴いてもらおうと思ったのが動機だという。当時柴田さんは「銀座スイング」の常連で、「店をやってみたい」とマスターの宮沢さんに相談があり、「それなら同じスイングという名にしなさい」と宮沢さんは「おれがのれん分けしてあげた」といっていた。

開店一周年に油井正一、大橋巨泉両氏によるレコード・コンサート、二周年には油井正一、牧芳雄の2氏を招いてレコード・コンサートが行われた。当時はまだモダンとかディキシーという区別がなく、何でもかかっていた。私は学生時代「渋谷スイング」の常連だったが、学校の関係で、授業が休講になるとよく「水道橋スイング」へ行って時間をつぶした。その時はいつもモダン・ジャズがかかっていた。私はディキシーが好きだったので、渋谷の方に頻繁に通い、昼間に時たま水道橋へ行って楽しむというパターンだった。ところが会社勤めが始まって間もなく、渋谷の方がディキシーをやめてモダンに変身してしまった。それが昭和40年代の初め頃だったと思う。それからは渋谷への足は遠のき、「水道橋スイング」が主なジャズの聴き所となった。水道橋の方は逆にモダンからトラッドへと移行していった

ビリー・ホリディのファンでジャズ評論家の大和明(平成20年9月没)氏は開店当初からの常連だった。同じ常連に村山和春氏や鳥本哲也氏がいて、彼らは村山氏を会長に「ジャズ・マニア・クラブ」を結成、月に1回土曜日の夜に話題の新譜を紹介するコンサートを開いた。新譜レコードは山野楽器の有田昭一氏が提供した。この催しは3年ほど続いたという。その後この仲間にテディ・ウィルソンのファンで世界的なコレクター瀬上保男(平成19年2月没)氏やバック・クレイトンのファンでポリドール・レコードの岡村融氏が加わってきた。更にそこへ渋谷からの流れ者の私、ファッツ・ウォラーの研究家椙山雄作(平成4年1月没)氏、日劇ミュージック・ホールの小林佳弘氏、うわさを聞いてホット・クラブの若手会員らも集まった。このような強力なメンバーが毎週土曜日の夜に「スイング」に集まり、トラッド・ジャズを聴きながらレコードの情報交換をするようになった。皆「スイング」に集まる前に、数寄屋橋のハンター、新宿駅西口のトガワとオザワを廻って、掘り出し物を自慢げに持ち寄っていた。

水道橋スイングにて
写真6 水道橋スイングにて(昭和45年3月) 後列左;不明−沢島孝夫−筆者−椙山雄作 前列左;岡村融−山中一男−瀬上保男−大和明の各氏

柴田さんの話では、最も多くかかったレコードは、ここでも「Jass at Ohio Union」だったという。この2枚組みアルバムは元々海賊盤で、日本には10組程度しか輸入されていないと聞いている。わが国で最も人気の高かったトラッド・ジャズは、このアルバムの中の「世界は日の出を待っている」であったことは間違いなさそうだ。柴田さんはニューオリンズ系のクラリネットがお気に入りで、ジョージ・ルイスはもちろん、エドモンド・ホールも大好きで集めていた。お店のニューオリンズ・ジャズのコレクションは完璧で、リクェスト用に備えてあった分厚いファイルは、瀬上さんがタイプし贈呈したものである。

「水道橋スイング」で最初にライブを始めたのが、笠井義正バンドである。昭和35年(1960年)のことで「THE AGE OF BUDDY BOLDEN : Yoshimasa Kasai’s New Orleans Jass Band」(Jupiter YK-601)は、10月23日にここで録音された貴重なレコードである。津村昭とストーリーヴィル・ダンディーズが発足したのもこの頃で、スイングで演奏した草分けだ。

水道橋スイング広告
写真8 水道橋スイング広告

渋谷と同様に「大学ディキシーランド・ジャズ連盟」の学生達も集まっていた。早稲田大学ニューオリンズ・ジャズ・クラブ、青山学院クレオール・ジャズ・バンド、工学院大学ディキシー・ダンディーズ、國學院大學カウンツ・オブ・ディキシー、東京経済大学サウスランド・ジャズ・バンド、芝浦工大リバーサイド・ディックス、武蔵大学クレオール・ストンパーズ、立教大学ディキシー・キャンプズ、慶応大学ディキシーランド・ジャズ・バンドなどのメンバー達も、レコードを基にニューオリンズ・ジャズの演奏方法を研究していた。

そしてこのファンの中の太田弘(武蔵大)氏を中心に、昭和40年(1965年)12月スイング・ハウス・バンドが演奏を始めるようになった。初めはテナー・サックスをメインにしたスイング・スタイルだったが、トランペットの加藤晋一(青山学院)氏やドラムの木田三七雄氏が加わって、ニューオリンズ・ジャズを目指すようになり、ここに「ザ・ニューオリンズ・ラグ・ピッカーズ」が誕生した。ラグ・ピッカーズは毎週木曜日に定期演奏をするようになり、練習は土曜日の閉店後に行っていた。我々のレコード・グループも土曜日の夜に集まっていたのでお互い顔見知りにはなっていたが、木田さん以外は親しく話しをした記憶がない。バンドの人達から見ると我々は「理屈ばかり言ううるさ方」と思われていたに違いない。これは後になって加藤さんから聞いた話だが、早く練習を始めたい彼らは、我々達を「いい加減にして早く帰れ!」と皆思っていたとのことである。

木田三七雄氏は大変な熱血漢で親分肌、東京のニューオリンズ・ジャズの顔役的存在だった。彼のドラムスは如何にもニューオリンズらしいユニークなスタイルで、温かみと愛嬌があった。またジャズの知識も別格で、昭和47年(1972年)河野隆次氏がプロデュースして日本発売したアメリカン・ミュージック・シリーズ(Dan Record 20枚組み)では、山口克己氏と組んで「ニューオリンズ・ジャズ・人名辞典」を各レコードに添付、更にディスコグラフィも作成するなど評論家顔負けの仕事もこなしている。彼は1980年代の初めだったと思うが、赤坂TBSの斜向いに“類”というライブ・ハウスを開店したが、経営が思わしくなく我々の前から姿を消した。類は“類は友を呼ぶ”と“ルイ・アームストロング”を関連付けて、トラッド・ジャズの普及を目指したものだった。その後の彼の消息は知るよしもなかったが、平成18年になってラグタイム・コレクターの大矢儀一氏からの情報で、木田さんが5月に食道がんで死去したことを知った。長い間奄美大島でサトウキビ作りをしていたという。まるでバンク・ジョンソンの引退を地で行った様な生活だ。

このように「水道橋スイング」はアマチュア・バンドの発祥の地といってよい。ラグ・ピッカーズのほかにニューオリンズ・ノウティーズ、キャナル・ストリート・ジャズ・バンド、バイユー・ストンパーズ、大丸ニューオリンズ・ジャズ・メンなどが生まれた。その集大成として、定期演奏会が御茶ノ水の日仏会館で、開店10周年(1967年)、15周年(1973年)、20周年(1978年)、25周年(1983年)、30周年(1988年)記念として行われた。お祝いに大阪からニューオリンズ・ラスカルズが駆けつけた年もあった。従業員バンドが前衛的なモダン・ジャズを演奏したユニークなステージも思い出される。現在のニューオリンズ・ジャズの根強い人気は「水道橋スイング」なしでは考えられない。そのくらい大きな影響をもたらしたと思う。

この「水道橋スイング」も昭和60年(1985年)、駅前拡張工事のために飯田橋へ移転せざるを得なくなった。8月7日に開店した新しいスイングは、飯田橋駅東口を出て目白通りを九段方面にちょっと行き、新宿中村屋のところを右に曲がって淋しい路地を登っていったビルの地下になった。時代もLPからCDの時代に移り、欲しいレコードは誰でも購入できるジャズ喫茶の運営には厳しい社会環境に変化した。

そして33年半続いた柴田さんの「スイング」は、平成3年(1991年)6月22日ついに閉店した。当日はテレビの生中継も入り、全国のファンに惜しまれての閉店で、柴田さんも満足されたのではなかろうか。

飯田橋スイング閉店
写真7 飯田橋スイング閉店の日(平成3年6月) 左から3人目が店主柴田榮一氏

店を閉めてからの柴田榮一氏は、アマチュア・ミュージシャンとの交流を更に深め、好きなニューオリンズ・ジャズの啓蒙活動に積極的に取り組んでいた。またホット・クラブ・オブ・ジャパンの例会にも参加するようになり、今度は我々のレコード・グループに仲間入りして一緒にレコードを楽しむようになった。平成9年には「ジャズ・ニュースレター」に「ニューオリンズ・ジャズ・リヴァイバル期のクラリネット奏者達」(Jazz Newsletter 1997, Vol.2 No.1)を寄稿している。しかし平成10年になり柴田さんは咽の手術をされ、以降外出を控え自宅療養を続けていた。その間にニューオリンズ・ジャズ・ソサエティの機関誌に「ジョージ・ルイスの追憶」(Soul Union 第1巻第1号、第2号 2001年2月、8月)を寄稿、お元気になられたと思ったが、平成15年(2003年)7月13日突然亡くなられた。85歳だった。告別式で私は、式場に流れていたジョージ・ルイスの賛美歌を聴きながら、この年の1月に亡くなられた池上悌三さんと一緒に、この演奏を聴いているに違いないと思った。ニューオリンズ・ジャズの熱烈なファンであったお二人が亡くなり、ひとつの時代が終わったと感じた。

平成17年8月末柴田さんのご子息柴田純一氏が、目黒駅恵比寿寄りにライブ・ハウス「Jay J's Cafe」をオープンした。モダン・ジャズが中心だが、ヴォーカルやトラッド・ジャズも楽しめる。お店のカウンターは「水道橋スイング」の作りと良く似ており、スピーカーは柴田家の離れのリスニング・ルームに置かれていたアルテックで、大変懐かしく、落ち着いた雰囲気のしゃれたお店である。ゆかりの金丸正城氏のステージの他、ラグ・ピッカーズを去った東海林幹雄氏と加藤晋一氏のニューオリンズ・ジャズ・ハウンズが、毎月第3土曜日の夜に出演していた。このお店も5年ほど続いたが、現在は閉店してしまっている。

参考資料

(日本ルイ・アームストロング協会の許諾を頂き、ワンダフルワールド通信NO.70より転載。)

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